いよいよ今年もあとわずか。
今日はクリスマスイブでもあり、有線からは一日中そんな歌が流れている。
本当に色々なことが日々起きて色々なことが流れていく中で、忘れてはならないことに思いを馳せる、そんな一日なのかもしれない。
東日本大震災は誰の記憶にも長く残るインパクトを与えた。
その傷跡が癒えるまで、これから何十年もの歳月が必要となる。
今は唯ゆっくりと立ち上がり、明日を信じて歩き出すしかなさそうだ。
タイトルの「坂の上の雲」だが、歴史にもしがあるとしたらと考えるととても興味深いものがある。
もし、この日露戦争での日本の勝利がなかったとしたら、世界は今だに欧米列強が支配し、多くの国は植民地のままで、オバマ大統領が生まれる確率は限りなくゼロに近かっただろう。
でも逆に欧米列強に呉する国となると決めたが故に、先の大戦での敗戦に至ったのは悲しい実に悲しい必然だったのかもしれない。
でも僕は何といわれようと、日露戦争での日本の勝利こそ20世紀最大の出来事だったと信じています。
NHKのドラマ「坂の上の雲」は明日「日本海海戦」が放映され三年間のドラマの最終回を迎える。
前々回の「二〇三高地」ではとにかく泣けた。乃木将軍の生き様に、何万もの名もなき日本兵の死に様に止めどなく涙があふれた。
本当に役者がうらやましいと感じる位の演技を越えた演技に感動した。戦闘シーンも凄かった。
僕はこの司馬文学の最高峰である「坂の上の雲」こそは、日本人が決して忘れてはならない出来事であったと思う。
※戦後日本の学校教育ではこの大切な部分の教育が決定的にかけていた。
というか恣意的に変えられていた。いわゆる自虐史観で彩られていたのです。本当に悲しいよね。
人は命ある限り、どんな時も、どんな状況でも生きていかねばならない。
このドラマはそんなシンプルで力強いメッセージを教えてくれた。
大震災以来、僕も何ともいえないほど心が落ち込んだ時期があった。
(震災鬱って言葉があるならそれかも)
でも今は大丈夫。
とにかく来年は少しでも良い年となるよう頑張りましょう。
サンエスの代表であります増田伸一のコラムページを新設いたしました。 日々、感じたこと、体験したこと、趣味のことなどなどを、 思い立ったときに、思ったことを記していこうと考えております。 興味のある方はご覧ください。
2011年12月24日土曜日
2011年12月2日金曜日
内山まもる先生
漫画家・内山まもる先生がお亡くなりになった。
享年62才とはあまりにも若い。急死だったそうだ。
僕は内山まもる先生(あえてそう呼ぶ)に、今から25年前に一度だけお会いした事がある。
当時僕は漫画家を目指していた。デザイン事務所の仕事も辞め、アルバイトをしながら日々作品を書いていた。でもそう簡単に認められるはずもなく、ある意味壁にぶち当たっていた。
そんな中、漫画雑誌(確か漫画少年)にアシスタント募集の記事を見つけた。何枚かのカットを描いて出版社に送った。そして後日出版社から返事が来て、君を採用したいという知らせを受けたのだが、その先生こそ内山まもる先生だったのだ。
先生からいろいろと説明をしたいからと云われ、先生の仕事場がある千葉県の習志野?駅でお会いしたのである。革ジャンにサングラスをかけ、BMVのスポーツカーに乗って現れた先生。ちょっと怖いイメージだったが、話してみると実に優しいしゃべり方で、偉ぶったふうもなく、茶目っ気たっぷりに、「この車は税金対策で買ったんだよ。」なんておっしゃっていたのを思い出す。
その時は仕事内容と毎月の給料や住まいの事等話してくれた。かなりの待遇に驚いた記憶がある。
そんなこんなで来月からお願いしますとあいさつをして分かれた。
夢に見た漫画家への第一歩を前に、心躍る様な高揚感を感じた一日だった。
しかし、人生の不思議というか、新たな人生の岐路に立ち、これで目標であった30才までに“漫画家デビュー”という道筋がはっきりを見えたと思った矢先、母から連絡が入った。父の病気が悪化したので実家に帰ってきてくれと云う。持病の糖尿病による併発症で、視力が極端に低下し、このままでは仕事が出来なくなるとの事だった。長男であるお前に帰ってきてほしいと。
結果的には僕は実家に帰り、家の印刷屋を継いだ。その3年後には結婚し、3人の子どもにも恵まれた。その後父の病状は日々悪化し、幾度も手術を受け、視力を失い、心筋梗塞を起こし64才の天寿を終えた。
今も時折思うのは、あの時、もし内山まもる先生のアシスタントの道を選んでいたらという事・・・。
先生の突然の訃報に接しそんな事を思い出した。
僕にとっての人生の転機となった出来事であった。
青春の甘酸っぱい記憶。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
享年62才とはあまりにも若い。急死だったそうだ。
僕は内山まもる先生(あえてそう呼ぶ)に、今から25年前に一度だけお会いした事がある。
当時僕は漫画家を目指していた。デザイン事務所の仕事も辞め、アルバイトをしながら日々作品を書いていた。でもそう簡単に認められるはずもなく、ある意味壁にぶち当たっていた。
そんな中、漫画雑誌(確か漫画少年)にアシスタント募集の記事を見つけた。何枚かのカットを描いて出版社に送った。そして後日出版社から返事が来て、君を採用したいという知らせを受けたのだが、その先生こそ内山まもる先生だったのだ。
先生からいろいろと説明をしたいからと云われ、先生の仕事場がある千葉県の習志野?駅でお会いしたのである。革ジャンにサングラスをかけ、BMVのスポーツカーに乗って現れた先生。ちょっと怖いイメージだったが、話してみると実に優しいしゃべり方で、偉ぶったふうもなく、茶目っ気たっぷりに、「この車は税金対策で買ったんだよ。」なんておっしゃっていたのを思い出す。
その時は仕事内容と毎月の給料や住まいの事等話してくれた。かなりの待遇に驚いた記憶がある。
そんなこんなで来月からお願いしますとあいさつをして分かれた。
夢に見た漫画家への第一歩を前に、心躍る様な高揚感を感じた一日だった。
しかし、人生の不思議というか、新たな人生の岐路に立ち、これで目標であった30才までに“漫画家デビュー”という道筋がはっきりを見えたと思った矢先、母から連絡が入った。父の病気が悪化したので実家に帰ってきてくれと云う。持病の糖尿病による併発症で、視力が極端に低下し、このままでは仕事が出来なくなるとの事だった。長男であるお前に帰ってきてほしいと。
結果的には僕は実家に帰り、家の印刷屋を継いだ。その3年後には結婚し、3人の子どもにも恵まれた。その後父の病状は日々悪化し、幾度も手術を受け、視力を失い、心筋梗塞を起こし64才の天寿を終えた。
今も時折思うのは、あの時、もし内山まもる先生のアシスタントの道を選んでいたらという事・・・。
先生の突然の訃報に接しそんな事を思い出した。
僕にとっての人生の転機となった出来事であった。
青春の甘酸っぱい記憶。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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